日本音響学会

音のなんでもコーナー

Q and A (130)

Q:

聴覚の研究で、「生態学的妥当性」という言葉を耳にすることがありますが、どのような意味ですか。

A:

生態学的妥当性とは、知覚実験に用いる刺激や実験状況が、その生物が通常生活する環境に照らし合わせたときに意味のあるものになっているか、ということです(文脈によっては違う意味で使われることもあるので注意)。
 従来の知覚研究では、心理物理学的な手法であれ神経生理学的な手法であれ、統制の厳密さや解析の容易さのために正弦波や雑音といった単純で抽象的な刺激を用いて実験を行う、いわゆる「実験室的」なものがほとんどでした。しかし、そうして得られた知見を実際の環境での知覚機能に適用しようとしてもうまくいかない場合が少なくありません。これにはいくつか理由があります。
 まず、知覚系は多くの場合非線形で、実環境で出くわすような複雑な音に対しては正弦波等からは単純に予測できない挙動を示します。かといって、網羅的、あるいは場当たり的にさまざまな刺激を試してみるのは非効率的です。個々のニューロンにしてもその総体としての人間(動物)の行動にしても、何か刺激を与えれば何か反応が出るでしょうが、それが実環境で意味のある機能を果たしているという保証はありません。
 実環境での知覚機能を理解しようとするならば、実環境の構造および人間(動物)の生態を分析することから始めるのが早道です。音声やもの音などを識別する際の特徴は、正弦波のような局所的、要素的なものではなく、音源固有の物理的性質を反映した大域的な構造をもつものである可能性が高いでしょう。また、妨害音の存在や壁の反射などの音響的帰結も、何は起こり易くて、何は起こりにくいという統計的な偏りがあるはずです。さらに、知覚者は同時に行為者でもあって環境内を能動的に動き回るということも、静止している場合にはない知覚手がかりをもたらします。知覚は、このような環境・主体双方の事情(生態学的制約)を踏まえた上での出来事の解釈と捉えることができます。脳の可塑性とは、生態学的制約を神経系の中に取り込む機能に他なりません。
 したがって、実環境での知覚機能の解明には、まず生態学的制約を特定し、それが知覚系で実際に用いられているかを実験的に検証するというアプローチが有効です。実験では必然的に、生態学的妥当性を意識した(場合によってはあえて生態学的にあり得ない)刺激が用いられることになります。もちろん、目的によっては「実験室的」な研究も重要です。適切な研究戦略のもとでなら人間に正弦波を聞かせる実験も有益ですが、コオロギに人間の音声を聞かせて人間を知ろうというのは実りが少ないでしょう。

(柏野 牧夫:日本電信電話株式会社 コミュニケーション科学基礎研究所)